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横浜地方裁判所 昭和46年(行ウ)26号 判決

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 泰康雄

同 坂本成

被告 神奈川県教育委員会

右代表者委員長 鵜川昇

右訴訟代理人弁護士 萩原博司

右指定代理人事務職員 相沢富治

〈ほか二名〉

被告 神奈川県

右代表者知事 長洲一二

右訴訟代理人弁護士 堀家嘉郎

同 萩原博司

右指定代理人事務吏員 相沢富治

〈ほか二名〉

主文

原告の被告らに対する請求は、すべてこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

(請求の趣旨)

一  被告神奈川県教育委員会が原告に対し、昭和四六年九月三〇日付をもってした免職処分は、これを取消す。

二  被告神奈川県は原告に対し、金九四一万三七四八円および昭和五二年六月以降毎月一六日限り一か月金一五万一二五二円の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は被告らの負担とする。

四  第二項につき仮執行の宣言。

(請求の趣旨に対する被告らの答弁)

主文と同旨。

第二当事者の主張

(請求原因)

一  原告は、昭和四六年四月一日(以下、特に年を示さない限り昭和四六年を指す。)、被告神奈川県教育委員会(以下、被告委員会という。)により地方公務員法(以下、地公法という。)二二条一項にいわゆる条件附で神奈川県三浦市公立学校教員として採用され、以来、三浦市立三崎中学校に勤務していた。

二  原告は、九月三〇日、被告委員会から免職処分を受けた。しかし、右免職処分は違法なものである。すなわち、原告の条件附採用期間中の勤務評定は、神奈川県市町村立学校職員の勤務成績の評定に関する規則(昭和三五年一〇月一四日教育委員会規則一四号)五条に基づいて三浦市立三崎中学校校長木村慎が行なったものであるが、同校長は、九月二七日、急性胃腸炎で平塚共済病院に入院中の原告を訪れ、原告に対して、病気の者を雇っておくことはできない旨述べて辞表を提出するよう申し入れた。原告は大いに驚き、せめて胃カメラによる診断結果が判明するまで待って欲しいと述べたが容れられず、同月三〇日、本件免職処分が発せられたのである。しかし、原告は、四月一〇日、起床時に強度の腰痛を覚えて以来、時折腰痛が発症してはいるが、これについては六月三日三浦市立病院において精密検査の結果、同月一七日筋々膜性腰痛症とされ、高校在学中ハンドボール部での筋肉運動に根を持つスポーツ後遺症的なもので、朝の冷温時あるいは疲労時に発症し易いものと診断されており、また、上記急性胃腸炎についても平塚共済病院に九月一六日入院したものの同月三〇日には退院している。したがって、原告は心身の故障のため引続いて任用されることが適当でないとの判断を受けるいわれはない。まして、心身の故障にかかる不適格性の判定は、他の事由にかかるものと異なり当該職員に帰責しうる性質のものではないから、とりわけ慎重な手続が要請されなければならないところ、本件免職処分は、上述の経緯から明らかなように合理的な理由を欠くのみならず、慎重な手続を覆まずになされたものとして、結局、裁量権を著しく逸脱し、かつ、手続に重大な瑕疵のある違法な処分といわなければならない。

三  原告は、本件免職処分まで、被告神奈川県(以下、被告県という。)から毎月一六日限り給与等の支払いを受けてきたが、本件免職処分が取消された場合に原告が被告県から受領すべき給与等の額は、昭和五二年五月までの分につき合計金九四一万三七四八円であり、また、同年六月以降は一か月当たり金一五万一二五二円の割合である(別表一参照)。

四  よって、原告は、被告委員会が九月三〇日付でした本件免職処分の取消しと被告県に対し金九四一万三七四八円および昭和五二年六月以降毎月一六日限り一か月金一五万一二五二円の割合による給与等の支払いとをそれぞれ求める。

(請求原因に対する被告らの認否)

一  請求原因一項の事実は認める。

二  同二項の事実のうち、被告委員会が原告主張の日に本件免職処分を行なったこと、原告主張のような勤務成績の評定に関する規則が存在すること、三浦市立三浦中学校校長木村慎が原告主張の日に、主張の病名で平塚共済病院に入院中の原告を訪れ、辞表を提出するように申し入れたこと、原告がその主張の日に三浦市立病院で検査を受け、主張の日に筋々膜性腰痛症との診断を受けたことおよび原告がその主張の日に平塚共済病院を退院したこと、はいずれも認めるが、その余は争う。

三  同三項の事実は認める。

(被告らの抗弁)

地公法二二条一項は、条件附採用の職員が「その職において六月を勤務し、その間その職務を良好な成績で遂行したときに正式採用になるものとする。」旨定めているところ、原告の条件附採用期間中の勤務実績は次のとおり不良であったため、地方教育行政の組織及び運営に関する法律三七条一項の規定に基づき、その任命権を有する被告委員会において、本件免職処分に及んだものである。

一  出勤状況の不良

(一) 原告を含む新規採用者に対して、

1 四月二日、藤沢市立大道小学校において、高座三浦教育事務所管内の新採用研修会が開かれ、同事務所の所長および次長から教員としての心構え、法規、服務等について指導が行なわれ、

2 同月三日、三浦市立福祉会館において、三浦市教育委員会管内の新採用教員研修会が開催され、同委員会の山田一太郎指導主事から教員としての基本的な事項(定刻までに出勤すること、出張する際の注意等)について資料を配布して説明がなされ、

3 同月一三日、前記三崎中学校において、新採用教員四名が同席している研究協議会の席上、木村慎校長から教員の基本的な心構えにつき話がなされ、

4 同月一五日の放課後、三崎中学校図書室において、今井正義教頭から同校における年休、出張届の提出方法、学習指導、学級指導等について口頭で説明がなされた。

(二) 原告個人に対して、

1 木村校長は、原告が四月の初めから遅刻、休みが多いので遠距離通勤がその原因であろうから近くに下宿するよう同月中において再三指導し、下宿先を探してやるからと三浦市内への転居を勧め、五月下旬には、年次有給休暇の残数が少なくなったため(原告は年間一五日のところ、そのうち既に九日と三時間を消化)、重ねて右転居を勧め、さらに、六月下旬、授業に影響があるので学校の近くに下宿するよう今井教頭と同席のうえで指導した。

2 今井教頭は、原告の遅刻、休みの多いことに早い時点で気が付き、朝の授業前の職員打合わせに間に合うようたびたび注意したが、そのほか、下宿先に電話して、休む場合には事前に連絡するよう注意したことも何回かあった。

3 美術科主任で第二学年の学年主任でもある青木和男教諭は、原告が美術科担当で、かつ、第二学年の担当でもあったことから先輩としてたびたびその勤務状況につき話し合いを行ない、近くに下宿するよう勧めたり、今の身分は特別なものであるからこのままでは辞めなくてはならなくななると注意したり、三崎市立病院で診て貰うようにとの助言をしたり、また、休むときは必ず事前に連絡し、補欠時間担当表を提出するように話した。

(三) ところで、原告の出勤状況は別表二のとおりである。これによれば、四月一日から九月三〇日までの六月における要出勤日数は一五二日であり、その間に、原告が実際に出勤した日数は七九日に過ぎず、しかも、そのうち一時間以上遅刻した日は一九日に及び残りの六〇日についても定刻に出勤したのは極めてまれであった。なお、出勤しなかった七三日の出勤簿上の取扱は次のとおりである。

欠勤   九日

療養休暇として処理されたもの   二八日

年次休暇として処理されたもの   一一日

研修(教育公務員特例法二〇条二項に基づき職務に専念する義務を免除されるもの)として処理されたもの   一四日

生理休暇として処理されたもの   五日

夏期職務専念義務免除として処理されたもの   六日

しかし、療養休暇として処理された二八日のうち、二日は筋々膜性腰痛症、一〇日は急性胃腸炎、といずれも休養を要する旨の医師の診断書があるが、残りの一六日についてはかような診断書の提出もなく、また、研修として処理された一四日のうち、一三日については後記のように山梨県の自動車教習所で受講しており、それぞれ本来は欠勤に相当するものであるが、いずれも原告の不利益にならないよう、校長が恩恵的に右のような処理をしたものである。

(四) 原告は、夏期休業期間中(七月二一日から八月三一日まで)の間、八月六日から同月二八日までの二三日間、定められた事前の私事旅行届を提出することなく、山梨県韮崎市所在の自動車教習所に泊り込みで連続講習を受けに行った。そのため、出勤すべきものと定められていた次の八日間、当該業務に従事せず、欠勤した。

1 八月五日から七日まで、 美術クラブの指導

2 八月九日 日直当番

3 八月一二日 第二学年登校日

4 八月一六日および二五日 全校登校日

5 八月二四日 県中学校教育課程研究協議会(海老名中学校において実施)

なお、二三日間のうち欠勤として処理された右八日間および日曜日(二日)を除く一三日間は、研修として処理されてはいるが、上述のような県外の自動車教習所における受講を事前に校長が承知していたならば当然これも欠勤扱いすべきものであった。けだし、中学校の美術担当教員にとって自動車教習所での受講は不可欠のものとは考えられないし、また、これを容認すれば、原告が夏期休業期間中に従事すべき業務を遂行できず、ために、学級運営に支障を生ぜしめるおそれは十分予想されたからである。そもそも、いわゆる夏休みと呼ばれる夏期休業期間中(三浦市教育委員会にあっては七月二一日から八月三一日までの四二日間)は、生徒にとっては休みであるが、教員にとっては勤務を要する日であって、この点では授業の行なわれる日と変りない。ただ、教員の特殊性から生徒が登校しない以上必ずしも在校勤務を必要としない場合が生ずるので、全校登校日、日直当番、クラブ活動の指導等の場合を除いては、校長の承認を受けたうえ自宅あるいは図書館での研修に従事し、登校しないことが許されるのである。したがって、これらの期間が勤務を要する日である以上、その間を教員が全く自由に行動できるというわけではなく、そこには自ら一定の限度があるのであって、原告の右期間中の行動はこの限度を越え、到底許されるものではない。

(四) 原告は、九月九日から同月一一日まで行なわれた三浦市教育委員会主催の昭和四六年度新採用教員研修会の際に、一〇日の史跡めぐりを無断で欠勤した。

(六) なお、教員が正規の勤務時間に職務専念義務免除の承認を受けることなく勤務しなかった場合には欠勤となり、その間の給与は支給されないが、神奈川県公立学校の教員に対して右承認が与えられる場合は次に掲げるように多様にわたり、したがって、欠勤は極めて異例なこととして、それだけで勤務成績不良の有力な証左となるものである。そして、三崎中学校に原告と同時に採用された他の三名の教員については、いずれも欠勤がなく、療養休暇もなかった。

1 学校職員の勤務時間、休暇等に関する条例に基づく休暇

(1) 年次休暇 年間二〇日(四月採用者は、採用された年は一五日)

(2) 療養休暇 九〇日

(3) 生理休暇 原則として二日

(4) 出産休暇 出産予定日前八週間に当る日から出産日後八週間に当るまで

(5) 育児休暇

(6) 忌引休暇 親族の死亡した場合に一〇日から一日の範囲内

(7) 慶弔休暇 父母の命日の場合一日、自己の婚姻の場合五日

(8) 特別休暇 交通機関の事故等の不可抗力の原因あるいは公民権の行使等の理由で勤務することができない場合

2 服務監督権者(原告の場合は三浦市教育委員会)が職務に専念する義務を免除する場合

七月一日から八月三一日までの間においては半日単位で一〇日

3 教育公務員特例法二〇条二項に基づく研修(自己研修、自宅研修)

授業に支障がないと校長が認める場合

二  紀律保持の精神の欠如

(一) 原告は、前記のように、三崎中学校の教頭、学年主任らを通じて、休むときおよび遅刻するときには事前に届を提出し、やむをえない場合には電話等による連絡をするよう指導を受けていたにもかかわらず、事前の届出も電話の連絡もなしに休んだり遅刻したりした。

(二) 三崎中学校においては、出張等で自己の授業ができない場合は事前に所定の届(補欠時間担当表)に必要事項を記入して提出することになっていたが、原告がこの手続をとったのは九月の新採用教員研修会に出張したときだけである。右補欠時間担当表は、出張、休暇などのため自己の授業を行なうことのできない教員が、担当することになっているクラス、時間および学習内容を記入して教務主任(山田勝)に提出するものであり、教務主任はこの表に従って代替教員を選定し、代替教員はこの表に記載された学習内容により授業を進めるなり、生徒に自習のための課題を与えるなりの措置をとるわけであって、表の提出がなければ教務主任の事務が円滑に行なえず、また、代替教員がクラスに出掛けても授業の進度が分からないため、どのような課題を与えてよいか判断できない。

(三) 原告は、中郡二宮町川匂一七三番地を住所として通勤届を出しているが、既に一月に同所から平塚市花水台二八番八号小林方に移っており、それにもかかわらず、学校にはその後も住所変更届を提出しなかった。なお、原告は月額六八四〇円の高額通勤費の支給を受けていたが、平塚市内に移れば右通勤費は六一四〇円となるからこの間、原告は差額七三〇円を不当に受領していたことになる。

三  教師として勤務していこうとする熱意の不足

(一) 原告は、平塚市に居住し、勤務校までの通勤には二時間ないし二時間三〇分を要するため、毎日定時に出勤することは事実上不可能に近かった。しかし、校長らのたび重なる転居の勧めにもかかわらず、原告は勤務校のある三浦市内に住居を移そうとしなかった。元来、原告を三崎中学校に採用するに当り、関係者は二宮町からの通勤は不可能とみて三浦市内に下宿することを前提に発令し、原告もこれを承知していたのみならず、原告の提出した教員採用志願書(乙第九号証)にも採用後の住所は未定であり、どこにでも転住できる旨の意思表示が記載されているのである。

原告は、腰痛のため遅刻、休暇が多いというのであるが、そうであれば、周囲からの再三の勧告に従い、まず速やかに三浦市に住居を移して、遅刻、休暇を少なくするよう努めるべきであるところ、原告は、三浦市は文化レベルが低いこと、生活の基盤、友人関係など自分の生活の都合を理由に平塚市からの通勤に固執し、しかも、同市内で家庭教師をし、私的サークル活動に参加していた。このような事情の下で、遅刻、休暇を反覆したことは真に身勝手であり、公務員として、また教師として、勤務していこうとする熱意に欠けること甚しいといわねばならない。

(二) 原告は、遅刻あるいは欠勤が周囲にどのような影響を及ぼすかについての認識を欠き、「遅れたり休んだりしても、他にもう一人美術担当の教員がいるからかまわない」旨の発言をしたり、補欠時間担当表を提出しなかったり、事前に休暇等の届もしくは連絡を行なわなかったりなど、その影響を最少限度にとどめるため、教師として当然なすべき最低限の配慮も払わなかった。そのため、学校の運営上あるいは生徒、同僚に及ぼした支障、迷惑は計り知れない。たとえば、

1 事前に何の連絡もないため、代替教員の選考事務が混乱した。

2 補欠時間担当表が提出されないため、代替教員が適切な授業指導を行なえなかった。

3 原告の担当するクラスの授業時間が大幅に欠けた。すなわち、昭和四六年四月から同年九月まで三二八時間授業すべきところ一五七時間を欠いた。

4 授業した時間が少ないため、生徒の作品が提出されていないものが多く、生徒の学級日誌の中にも苦情が書かれた。

5 原告が休んだ際に、授業に当たった代替教員、学級担当教員から苦情が出た。

(抗弁に対する認否および反論)

原告の条件附採用期間中の勤務実績が不良であったとの主張は否認する。

一  出勤状況の不良の主張に対して

(一) 抗弁一項(一)の1ないし4の事実は認める。ただし、出勤、出張等の手続に関する指導は、その詳細は事務担当者に相談することと言われたにとどまる。およそ、学校教員は、その職務の性質から出勤、休暇、出張等についての手続には全く疎いのが通例で、これらの取扱は事務担当者に事実上委ねられており、三崎中学校においてもその例外ではなかった。

(二) 同項(二)の1のうち、木村校長が下宿先に関して勧告指導したことは否認する。原告の三崎中学校に勤務するための面接が三月に行なわれた際、校長が下宿先を探してもよいと話したことはあるが、四月以降具体的な話はなく、かえって、五月中旬転居しないならば自動車運転による通勤をするよう勧告し、これに応えて、原告は勤務に差支えのない早い時期に運転免許を取ることを約したのである。

2の事実は否認する。

3のうち、青木和男教諭が美術科主任で第二学年の学年主任であること、原告が美術科担当で、かつ、第二学年の担当でもあったこと、原告と右青木学年主任との話し合い、連絡がたびたび行なわれたことおよび原告が青木学年主任から三崎市立病院で診て貰うよう助言を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。原告は無断で学校を休んだことはなく、今井教頭、青木学年主任等に必ず連絡をした。なお、病気が原因で休暇をとるのに必ず事前の連絡を要するとの指導は不可能を強いることであり、それ自体意味をなさず、原告は発症の時間、状況に応じて始業前あるいは当日中に連絡をした。そして、青木学年主任は原告の病気とその治療に理解を示し、原告の担当授業時間はさて措き、職員の打合わせその他の時間については無理をしないよう勧め、この点について校長および教頭から了解を得ておくということであったから、原告は積極的に同主任と連絡をとり、遺漏のないように努めた。

(三) 被告らは、四月一日から九月三〇日までの六月間の要出勤日数を一五二日とし、実際に出勤した日数を七九日とし、両日数を対比させていかにも原告の出勤日数が少ないかのごとく評価している。これは、右各日数の算出基礎にいわゆる夏期休業期間(七月二一日から八月三一日)を含め、しかもこの期間の出勤に関する取扱につき、実際に行なわれているルーズな処理をせず、免職せんがための形式的、非実際的処理を敢えて行なったことによるものである。

原告の出勤状況は次のとおりである。

1 四月一日から七月二〇日まで

(1) 要出勤日数 九二日(被告ら主張による別表二と一致)

(2) 実出勤日数 六五日(同)

(3) 休暇 二七日(同)

生理休暇 五日(同)

病気による休暇  二二日

2 九月一日から同月三〇日まで

(1) 要出勤日数 二四日(被告ら主張による別表二と一致)

(2) 実出勤日数 七日(被告ら主張による別表二の六日に九月一〇日の勤務を加える)

(3) 休暇 一七日(病気による休暇・入院)

3 原告が一時間以上遅刻(時間休)して出勤した日は、別表二中の五月二〇日、七月一〇日の両日を除いて認める。しかし、遅刻の理由は腰痛症によるものであり、これについては、青木学年主任を通じて校長の了解が得られていたはずである。

4 病気による休暇の取扱については、まず、四月七、八両日は、原告が取扱方法をよく知らないことから、年次休暇届を出し、事務担当者の山本絹子には胃腸カタルによるものである旨告げておいたところ、被告らは、両日を療養休暇として扱っている。その後も、原告は、腰痛症を告げて年休届を出し、前記のとおり六月一七日三浦市立病院において筋々膜性腰痛症の診断が出たことから、その診断書を校長に見せたうえ教頭に提出し、療養休暇がとれるそうだからこれに切り替えて欲しい旨申し出たところ、教頭において、年休があるまでこれを使えと言うので、右指示に従い、六月二五、二六日の両日について年休届を出したが、被告らは、この両日も療養休暇として扱っている。以上のように、休暇の取扱は実にあいまいである。なお、原告は、療養休暇について要求された診断書はすべて提出済である。

5 原告の腰痛の症状は、午前五時ごろ目が覚めると背部がそのまま布団にへばりついたような状態になっており、身体を動かそうとすると腰部に激痛をきたして起きられず、そのまま相当時間を置いて痛みに耐えながら徐徐に身体を横向きにし、さらに屈伸的運動を繰り返してからやっと坐し、身体を屈して時間を置き、起床可能となるのであった。その後は、登校可能な場合もあれば(時間休をとることになる)、起立状態を長時間維持できないため一日休暇をとらざるをえない場合もあった。右の腰痛は、二月一〇日ごろの生理時に初めて知覚したが、前記のとおり四月一〇日以降は生理に関係なく発症し、同月一四日、一七日、二二日、二四日と断続的に発症したことから同月二六日原告は校長に腰痛の具体的状況について詳細に説明し、その夜、下宿に近い吉沢医院吉沢周医師の診断を受けた。同医師によれば、心配することはなく、相当期間を経れば治癒するということであり、その承認のもとに、同医師の妻吉沢和子から鍼による施療を月平均三回受けることとなった。その後も腰痛は快方に向かわず、五月二五日、青木学年主任に症状を話したところ、病気の場合には療養休暇が年次有給休暇とは別に取れること、そのためには前記のように三浦市立院病で診て貰ったうえ、診断書を提出したほうがよいと助言され、原告は右助言に従い前記のとおりの診断結果を得たのである。六月から七月にかけて漸く快方の兆をみるようになり、七月一四日から一七日まで四日間休暇をとったのは、期末試験後の担当一二クラス(約五〇〇人)の採点および一学期の成績評価を四日間にわたり徹夜を含めて集中的に行なった結果、例外的に疲労による腰痛症状が現われたことによる。そして、八月、後記の自動車教習所での受講中に二、三回腰痛を覚えたが、その程度は起床時一時間ないし二時間で回復する状態にとどまって、それ以上の腰痛はみられなくなり、通勤に関しては、右自動車教習の結果、九月二二日に運転免許証の交付を得たため、従来の所要時間約二時間三〇分を約五〇分に短縮できることになって、仮に一時腰痛が発症しても遅刻しない態勢が整ったのである。

(四) 抗弁一項(四)のうち、原告が被告ら主張の期間、私事旅行届を提出することなく、その主張の自動車教習所に泊り込みで連続講習を受けに行ったことおよび被告ら主張の月日がそれぞれ主張のような行事の日であったこと、は認める。しかしながら、右受講は、前述のように、転居しないのなら自動車運転による通勤をするようにとの校長の勧告に従ったものであり、このことは予め青木学年主任に連絡しておいた。そこで、八月五日から七日はクラブ活動指導の日ではあったが、これは生徒の任意的課外活動であって、その変更、中止は事情のある限り許されるものであるため、上述の経緯から自動車教習所に赴くので登校できない旨を生徒に連絡し、取り止めたのである。また、八月九日、一二日、一六日および二五日については、同月一日(日曜日)に青木学年主任から原告が一定のクラス担任でないことから登校しないでよい旨、日直当番は同主任が代って行なう旨の助言、了承を得ていたものである。なお、八月二四日の協議会については、原告は何ら出張命令を受けていない。

(五) 同項(五)のうち、被告ら主張の日に、主張のような研修会が行なわれたことおよび原告が九月一〇日に欠勤したことは認める。けれども、右欠勤は、九日の研修日に原告は生理となったので、その旨を及川主事に伝えたところ、一〇日は休暇をとるようにといわれたためである。そこで当日、生理休暇をとり休養していたが、気分的に楽になった昼時に研修会に参加すべく、日程表に従って北鎌倉へ行ったところ、急きょ日程が変更されていて、一行に合流できず帰宅した。右の事情は、翌一一日、山田指導主事に報告済みであり、したがって、当日の欠勤について非難されるいわれはなく、前記のようにこれを実出勤日数に算入すべきである。

二  紀律保持の精神の欠如の主張に対して

(一) 抗弁二項(一)の事実は否認する。原告が無断で休んだことのないことは前述のとおりである。

(二) 同項(二)のうち、三崎中学校においては、被告ら主張のような事態に際して、事前に補欠時間担当表を教務主任に提出することになっていたこと、右担当表の提出が被告ら主張のような趣旨であることおよび原告が被告ら主張の研修会に出張するにあたり右担当表を提出したことは認める。原告は、五月一三日の出張の際にもその前日に右担当表を提出しており、他の出張の際は、当日原告が授業すべき日ではなかったから提出の要がなかった。

(三) 同項(三)のうち、原告が被告ら主張のような通勤届を出していることおよびその主張のころ主張のように住所を移したことは認める。しかし、原告は、その旨の住所変更届を提出している。

三  教師として勤務していこうとする熱意の不足の主張に対して

(一) 抗弁三項(一)のうち、原告が平塚市に居住し、三崎中学校までの通勤に被告ら主張のような時間を要することおよび原告が被告ら主張の教員採用志願書に、その主張のような記載をしたことは認める。しかしながら、右志願書は昭和四五年七月三〇日に作成した神奈川県教員採用試験のためのもので、就職等意向調査票のように具体的任地希望の意思表示を記載したものでないことは明らかであり、しかも、原告は同志願書の希望地域には足柄下、中地域(小田原市、平塚市方面)を記載しているのである。そして、原告は、被告委員会の教員採用候補者名簿に登載された後、同被告が原告を教員として任命するにあたり、同年一二月一〇日ごろ、神奈川県教育庁管理部教職員課長名で具体的に配置先を定めるための就職等意向調査票の提出を求めた際には、右調査票において自宅通勤の可能な学校への配置を希望している。したがって、被告委員会は原告の意向を知りながら原告を教員として採用し、三崎中学校へ配置したのであり、それゆえに、その遠距離通勤を認めざるを得ず、校長は自動車運転による通勤を勧め、教頭も原告が就職して間もない四月一五日には、午後四時三〇分ごろ遠距離通勤だから帰ってよいと便宜を図ってくれたのである。

(二) 同項(二)の事実は争う。原告は、担当授業について、青木学年主任と協議して決めたカリキュラムを遂行し、四月当初において生徒に対し年間の全体計画を示すとともに、各授業の終りには必ず次回の授業内容を教示していた。したがって、原告の事前連絡のない休暇、遅刻によって被告らが主張するような支障が生じたとは考えられない。また、被告らは授業すべき時間として三二八時間を主張しているが、授業すべき時間の範囲は流動的なものであり、現に被告らも、校長の指示、家庭訪問、研修その他の出張、生徒総会等の日については、当日予定の授業時間を授業すべき時間から除外しており、さらには、年次休暇、生理休暇および療養休暇が法的根拠をもつことから考えると、その当日の授業予定時間も除外しうることになる。一応、被告らの設定基準に従うとしても、原告の授業すべき時間は三二五時間、欠いた時間は一五四時間であり、また、山田教務主任の指示に基づき補欠時間として、四月一五日、一六日、二七日、五月一一日、二一日、六月一日に各一時間、六月二四日に三時間、以上計九時間の授業を行なっているから、結局、原告は一八〇時間の授業をしたことになる。いずれにせよ、原告は、病気のため欠けた時間はあったものの、最大の熱意をもって授業にあたっていた。

四  原告が、休暇等に関してとった連絡の具体的方法は、前述したもののほか、次のとおりである。

(一) 四月から五月二〇日までは、原則として事務職員山本絹子の席の直近に在る受話器に連絡したが、その時刻は、一日休暇の場合は午前八時三〇分から九時三〇分ごろの間が多く、時間休一時間ないし二時間の場合は横須賀、平塚あるいは大船の各駅から連絡するため、午前八時から八時三〇分ごろの間が多かった。これらの場合、相手方は殆んど山本職員であり、四ないし五回今井教頭、一、二回山田教務主任であった。もっとも、四月二四日の一時間休暇のときは、大船駅から七時三〇分ごろ連絡したところ、用務員が教頭への伝言を了承しながらこれを忘れたため、原告が九時ごろ登校した際、直ちに教頭および教務主任から呼ばれ、連絡がないことを強く叱責された。そこで、それ以後は八時以降に教員室の方に連絡することにしたのである。(八時前には電話はすべて用務員室にかかる。)。

(二) 五月一〇日および一四日には、腰痛の症状が重くて事前の連絡が全く不可能であったから、事後的に午後九時ごろ青木学年主任宅に電話したが、その際、同主任から教頭宅へも連絡するように言われ、そのころ右の連絡をとった。五月二二日以降は、一学年担当教員席直近の受話器に(一)と同様の時刻に連絡した。これは、五月二〇日に山本職員に電話連絡して国鉄ストで遅れる旨述べておいたところ、登校した際、同職員からストは口実であろうと言われて不快な思いをしたので、先輩教員の松田安世にこのことを話したが、同人から二学年の教員はすべて同学年担当教員席の受話器に連絡している旨教示され、以後そのような方法をとったものである。右の受話器には、河田美智子の出ることが多く、他に廣瀬、東川らの教員が出た。

(三) 六月四日、九日は腰痛の症状が重く、下宿先の小林に依頼して電話連絡したが、同人は、原告が電話料の支払を申し出たにもかかわらず、これを不要と答えながら陰で不払であると非難したりするので、その後は、原告自身で、重症の時でも無理をして連絡をとっていた。

五(一)  地公法二二条一項の規定は、条件附採用期間中の勤務成績等を職員選択手続の最終的過程とするものであるが、右過程は、成績主義の原則に基づく試験または選考を終えて既に職務を遂行し、正式採用されることにつき期待権を有する者を対象としているから、積極的な適格性判断の過程ではなく、消極的な不適格性の判断過程というべきである。このことは、正式採用の場合には何ら発令形式がとられず、不適格者にのみ免職処分の通知が行なわれることからみても明らかである。してみれば、条件附採用期間中の職員の免職処分には、当該職務に引き続き任用しておくことを不適当とする合理的かつ具体的理由が必要であり、それなくしてなされる免職処分は違法ということになる。また、右の趣旨を前提として、同法二九条の二第二項は、合理的かつ具体的理由を条例で定めることができると規定しているが、神奈川県では未だ当該条例を制定していない。この場合、同趣旨のもとに定められている人事院規則一一―四第九条の「条件附採用期間中の職員は、……勤務実績の不良なこと、心身に故障があることその他の事実に基づいてその官職に引き続き任用しておくことが適当でないと認める場合には、何時でも降任させ、又は免職することができる。」が準用されるべきであるから、心身の故障のためその職に引き続いて任用しておくことが適当でないとの判断は、その故障が著しく、かつ、容易に回復の見込みがないため、現にその職務に著しい支障をきたし、将来もまた支障が続くものと予想される場合に限られるべきである。そして、上述のように、原告については、急性胃腸炎はもとより、筋々膜性腰痛症も重症のものではなく、発症が起床時であることから遅刻せざるを得ない場合は生じたけれども、職務に特別の支障をもたらしたことはなかったうえ、治癒可能との診断のもとに有効な治療を受け、将来も職務に支障をきたすことは到底考えられなかったのであるから、その不適格性の判断は、合理的かつ具体的理由に基づかないものというべきである。

(二)  心身の故障にかかる不適格性の判断については、他の事由にかかるものと異なり、当該職員に帰責しうる性質のものではないから、とりわけ慎重な手続が要請されなければならない。正式採用職員の免職処分に関し、医師二人を指定してあらかじめ診断させることを要件とする、神奈川県の「市町村立学校県費負担教職員の分限に関する手続及び効果に関する条例」三条一項の規定は、これが地公法二八条一項二号に基づくこと、右地公法の条項と同旨の規定が前記人事院規則一一―四第九条にみられることを考慮すれば、条件附採用期間中の職員にも適用されるべきであり、仮にそのまま適用されないとしても、とりわけ慎重な手続が要求されることを示しているといえる。これに反し、本件免職処分に至る経緯は、慎重な手続を全く欠いたものというべきである。

(原告の反論に対する被告らの主張)

一  原告の勤務状況は、前記のとおり、出勤しない日が七三日の多きに及んでいるのであるから、この事実だけで、もはや「その職務を良好な成績で遂行した」場合にあたらないというべきである。病気であれば、どれほど多くの遅刻、休暇があってもなお良好な成績でありうると考えているとすれば、原告は根本的に誤っている。欠勤等が公務上の病傷害に由来するなどのやむをえない理由に基づくものであって、正式採用としないのは本人にとり真に気の毒というような特殊な事情があるときにのみ例外的な取扱いが許されるのである。

二  原告の出勤状況については、次の点が注目される。たとえば、(一)七月二〇日の第一学期終了までの間、土曜日に出勤しなかったのは、四月一〇日、一七日、五月一五日、二二日、六月二六日、七月一七日の六日、日曜日および祝日の翌日出勤しなかったのは、四月三〇日、五月四日、六日、一〇日、七月五日の五日、そして、五月一四日、一五日(金・土)、六月二五日、二六日(金・土)、七月一四日、一五日、一六日、一七日(水・木・金・土)にはそれぞれ連続して休み日曜日に続いている。以上のように、休日の前後の休みは合計して一六日にも達する。(二)生理休暇は、五月四日および六日であるが、これはいわゆるゴールデンウィークの時であり、五月九日は日曜日、一〇日は年休となっている。しかし、八月には生理を理由に自動車の講習を休んでいない。(三)三年四組についての原告の授業の担当は金曜日および土曜日であり、九月末日までの学校の行事を除いた授業すべき時間は二九時間であるが、そのうち原告が休んだのは一五時間にも及び、半分をこえている。

三  遅刻、休暇について、当日の連絡が原告の主張するように電話によってその都度行なわれていたとは認め難いし、また、原告の強調する腰痛によって、遅刻、休暇が真にやむをえないものであったとは考えられない。特に、腰痛のため電話もできず、学校にも行けないという状態が生ずるのに、なぜ、自動車の運転ならば可能で、遅刻も休暇もしないようになるというのか理解できない。

第三証拠《省略》

理由

一  原告が四月一日、被告委員会により地公法二二条一項にいわゆる条件附で神奈川県三浦市公立学校教員として採用され、以来、三浦市立三崎中学校に勤務していたところ、九月三〇日、被告委員会から免職処分を受けたことは、当事者間に争いがない。

二  そこで、本件免職処分の適否について検討する。

(一)  前記地公法二二条一項は、「臨時的任用又は非常勤職員の任用の場合を除き、職員の採用は、すべて条件附のものとし、その職員がその職において六月を勤務し、その間その職務を良好な成績で遂行したときに正式採用になるものとする。」と規定して、いわゆる条件附採用制度をとることとしており、この点、一般職の国家公務員である職員の場合と異ならない(国家公務員法五九条一項)。しかして、この制度の趣旨、目的は、職員の採用にあたって行なわれる競争試験もしくは選考の方法が、なお、職務を遂行する能力を完全に実証するとはいい難いことに鑑み、いったん採用された職員の中に不適格者があるときは、その排除を容易にし、もって、職員の採用を能力の実証に基づいて行なうとの成績主義の原則(国家公務員法三三条一項、地公法一五条)を貫徹しようとするにあると解される。

ところで、条件附採用期間中の職員に対しては、正式採用の職員に対する身分保障規定の一つである職員の分限に関する規定の適用が排除され、分限については人事院規則ないし条例で必要な事項を定めることができる旨規定されている(国家公務員法八一条、人事院規則一一―四第九条、地公法二九条の二)。この点からして、条件附採用期間中の職員と正式採用となった職員との間では、その身分保障について差があるということはできるが、しかし、条件附採用期間中の職員といえども右法令が存する以上、法令所定の事由に該当しない限り分限されないという身分保障を受けるものといわなくてはならない。そして、条件附採用制度の趣旨、目的および右人事院規則一一―四第九条所定の分限事由が、一定の評価を内容とするものであることを勘案すれば、条件附採用期間中の職員に対する分限処分については、任命権者に相応の裁量権が認められることはいうまでもないが、もとよりそれは純然たる自由裁量ではなく、その判断が合理性をもつものとして許容される限度をこえた不当なものであるときは、裁量権の行使を誤った違法なものになるというべきである(最高裁昭和四七年(行ツ)八九号免職処分取消請求事件同四九年一二月一七日第三小法廷判決・裁判集民事一一三号六二九頁参照)。

もっとも、神奈川県において、条件附採用期間中の職員の分限に関する条例の制定されていないことは被告らも明らかに争わないところであるが、かかる場合、条件附採用期間中の職員に対する分限処分は、国家公務員に関する人事院規則一一―四第九条の規定を類推して、地公法二八条一項四号に掲げる事由に該当する場合または勤務実績の不良なこと、心身に故障があることその他の事実に基づいてその官職に引き続き任用しておくことが適当でないと認められる場合に限り許されるものと解するのが相当である。

(二)  被告らの主張する免職処分事由の有無

1  原告の出勤状況について

(1) 抗弁一項(一)の1ないし4の事実は、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》に徴すれば、これら研修会などにおいて、出勤、出張等に関する手続についても具体的な指導の行なわれたことが認められ(る。)《証拠判断省略》

(2) 抗弁一項(二)のうち、三崎中学校において、青木和男教諭が美術科主任で、第二学年の学年主任であること、原告が美術科担当で、かつ、第二学年の担当でもあったことおよび右青木学年主任と原告との話し合い、連絡がたびたび行なわれたことは、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》を総合すれば、後記のような原告の出勤状況から、木村校長、今井教頭あるいは青木学年主任らが、四月下旬ごろより、原告に対して勤務先に近い三浦市内に下宿するよう何度か勧めたこと、また、八時までには出勤して、八時三〇分ごろまで行なわれる職員打合わせに遅れぬように注意し、休暇をとる場合などには予め届を出すよう、やむをえないときは電話連絡をするよう指導したこと、これに対して原告は、欠勤、遅刻は遠距離通勤もしくは腰痛の発症によるものであると述べ、また、三浦市は文化的レベルが低く、文化施設、サークルもないのに反し、現住居のある平塚市には友人もおり、学校外の繋りも持っていることから、容易に住所を移転しかねると述べたこと、青木学年主任との話し合いも叙上と同様の内容のものであり、同主任は、五月下旬ごろ、原告に対して三浦市立病院で診察を受けるよう助言したこと(右助言については当事者間に争いがない)、が認められる。

(3)イ 四月一日から七月二〇日までの間、原告の要出勤日数が九二日であったこと、そのうち実際に出勤した日数が六五日、休暇が二七日(うち五日は生理休暇)であったこと(その具体的月日は別表二のとおり)および出勤した日のうち一時間以上遅刻した日が少なくとも一六日(その具体的月日は五月二〇日、七月一〇日を除いて別表二のとおり)に及んでいたことは、当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によれば、五月二〇日も一時間以上遅刻、すなわち年休四時間をとっていることが認められ、他方、《証拠省略》によれば、七月一〇日は午前八時から同九時まで一時間の生理休暇をとったものであることが認められる。

ところで原告の欠勤、遅刻が右のように多かった事情については、

(イ) 四月七、八日の両日の欠勤は、胃腸カタルの発病によるものであることは、《証拠省略》によって認められる。

(ロ) 原告本人(第一回)は、

原告は、高校時代はハンドボール部のレギュラー選手として活躍するなど健康に恵まれてきたが、二月ごろの生理時に初めて腰痛を覚え、その後四月一〇日以降は生理とは関係なく時折腰痛が発症し、五月に入ってからはその頻度が著しく増加するようになった。この腰痛の症状は、朝の起床時に腰部に疼痛を覚えて身体を動かすこともできず、時間をかけて痛みに耐えながら筋肉を少しずつ動かしていくうちに次第に疼痛が和らいできて起床が可能になるというものであった。そして、右腰痛は、毎朝生ずるわけではなく、不定期に、しかも、三〇分位で痛みの解消するときもあれば、これが一日中続くときもあるといった状況であった。原告は、当時平塚市に下宿しており、三崎中学校までの通勤には二時間から二時間三〇分を要し(以上の点は当事者間に争いがない。)、したがって、起床時に腰痛が生じた場合、その痛みが終日続くときはもちろん、昼過ぎまで続いてようやく回復するようなときでも、以後出勤しても、学校に到着する頃には授業時間は終了してしまうために、数多くの休暇をとらざるをえなかった。また、腰痛が午前中の比較的早期に回復した場合でも、数時間の遅刻は免れず、そのため一時間以上にわたる遅刻を繰り返したものである。なお、原告は、四月ごろ下宿の近くの吉沢医院で診察を受けたが明確な病名を得られず、前記のような青木学年主任の助言に従い、六月三日、三浦市立病院で診察を受けた結果、同月一七日筋々膜性腰痛症との診断を得た(右の各日に原告が同病院で検査を受け、かつ、右のような診断を得たことは当事者間に争いがない。)。その後は、同病院の指示に従って、痛みのひどい時には冷湿布をしたり、痛み止めの薬を飲んだりしたので、六、七月に至って大分軽くはなったものの、一二月ごろまでは依然として月三、四回位断続的に発症していた。しかし、翌昭和四七年初めごろからは、全く腰痛を覚えることはなくなった。

と供述する。そして、《証拠省略》には、右供述に相応した、原告の愁訴に基づく三浦市立病院整形外科佐藤実医師の七月一一日付臨床症状、処置および意見が記載されている。

(ロ) 九月一日から同月三〇日までの間、原告の要出勤日数が二四日であったことおよび九月一、二、三、八、九、一一日に出勤したことについては、当事者間に争いがない。

そうすると、原告は右期間中、少なくとも一七日(残余の一日、すなわち九月一〇日については後記(5)のとおり)を欠勤したことになるが、これらが出勤簿上、療養休暇として扱われていることは《証拠省略》に照らして明らかである。しかして、原告本人(第一回)は、九月四日から七日までは腰から背中にかけての痛みのために休んだものであると述べ、さらに右供述および《証拠省略》によれば、原告は、九月一三日に急性胃腸炎を患って、同日から三〇日まで一四日間休み、その間に、平塚共済病院に一六日に入院し、三〇日に退院していること(原告がそのころ急性胃腸炎を患い、三〇日に右病院を退院したことは当事者間に争いがない。)が認められる。

(4) 抗弁一項(四)のうち、原告が夏期休業期間中(七月二一日から八月三一日まで)の八月六日から二八日までの二三日間、自動車運転免許取得のため山梨県韮崎市所在の自動車教習所に泊まり込みで連続講習を受けに行ったことおよびその間の五日から七日までのクラブ活動の指導登校日、九日の日直当番、一二日、一六日、二五日の各登校日、二四日の県中学校教育課程研究協議会の八日間をそれぞれ欠務したことは、当事者間に争いがない。

原告は、クラブ活動の指導は任意的課外活動として事情のある限り変更、中止は許されるから、生徒に連絡して取り止めたものであり、また、運転免許取得のための受講は校長の勧告に従ったもので、右のクラブ活動指導の日を含め、各登校日については青木学年主任の承諾をえ、日直当番も同主任と交替している旨主張する。そして、原告本人(第一回)は叙上の主張に副う供述をし、また、証人青木は、八月初めごろ、原告から山梨へ泊り込みで自動車教習の受講に出掛けるとの電話があった旨証言している。しかしながら、後掲証拠に照らせば、原告本人の右供述はたやすく採用し難いし、また、青木証言も原告のこの主張事実を直ちに裏付けるものとはいえず、他に右主張事実を肯定するに足りる証拠はない。かえって、《証拠省略》に徴すれば、被告県における「学校職員の勤務時間、休暇等に関する条例」(昭和三二年一〇月一二日条例第五七号)は、地公法二四条六項および地方教育行政の組織及び運営に関する法律四二条の規定に基づいて、県立学校の職員および市町村立学校職員給与負担法一、二条に定める職員の勤務時間、休暇等に関して必要な事項を規定しているが、右条例二条二項に準拠して「県立学校職員の勤務時間の割振りに関する規程」(昭和三五年四月一二日神奈川県教育委員会訓令第二号)が定められ、これをうけて出されている「県立学校職員の勤務時間の割振りに関する規程に関する運用方針について」および「休業期間中の服務について」を参照すれば、夏期休業期間中のクラブ活動の指導といえども、これが立案計画された以上、校長の了解なしに、ほしいままに変更、中止の許されるものでないことが肯認されるのであり、加えて、《証拠省略》を総合すれば、三崎中学校における夏期休業期間中の行事予定表に対応して、原告が七月一七日前後に作成提出した右期間中の動静表には、自動車教習の受講に関する記載はないばかりでなく、その後にもその変更、訂正の届は出されていないこと、青木学年主任は八月九日の日直当番を交替勤務していないこと、そして、木村校長は八月二五日に原告の二宮町の自宅に電話したけれども、その行方は判らず、翌二六日韮崎市からの原告の電話連絡によって、初めてその所在を承知したこと、が認められる。

なお、原告は、八月二四日の研究協議会については何ら出張命令を受けていないから出席義務はない旨主張し、原告本人(第一回)の供述中には右主張に副う部分もある。しかし、《証拠省略》および右供述に照らせば、出張は必ずしも出張命令という形式を覆むわけのものではなく、しかも、原告はこの事情を了知し、かつ、同日「執行措置研修」なる右協議会の行なわれることを認識していたことが認められるのであるから、所詮、原告の上記主張は採りえない。

(5) 抗弁一項(五)のうち、原告が九月九日から一一日まで行なわれた三浦市教育委員会主催の昭和四六年度新採用教員研修会の際に、一〇日の史跡めぐりを欠勤したことは、当事者間に争いがない。この点につき、原告は及川主事の指示のもとに生理休暇をとったものであり、非難されるいわれはないと主張する。そして、《証拠省略》および原告本人(第一回)の供述するところによれば、右研修会は宿泊研修であったが、原告は、その初日の夕方に生理となり、その旨を主催者側の及川指導主事に伝えて宿泊せずに下宿に帰り、翌一〇日は休養していたところ、午前中に気分がよくなったので昼時から研修会に参加すべく、予め配布されていた計画表に従って研修会参加者一行のいるはずの北鎌倉へ赴いたけれども、日程が当日になって急に変更されていたため、一行に合流することができなかった、というのである。しかしながら、右供述は、《証拠省略》に対比するとき、未だ一〇日の所為について主催者側の承諾を得たことの確証とはなし難く、他に同日の行動を出勤と同視せしめるに足る資料も見当たらない。

そうすると、右九月一〇日は通常の欠勤として算入すべき筋合いである。

(6) 抗弁一項(六)のうち、休暇に関する諸規定については原告の明らかに争わないところであるが、《証拠省略》によれば、四月一日から九月三〇日までの原告の欠勤について、前述のとおり原告がその理由として腰痛を挙げているものに関しても、出勤簿上は、必ずしも療養休暇としてではなく、多くは年次休暇として処理されていることが認められる。この事情についてみるに、《証拠省略》によれば、三崎中学校では一般に職員が病気の場合、もとより療養休暇として休暇をとることもできるが、その際には診断書の提出が要求されて面倒な上、療養休暇をとると次期の昇給あるいは勤勉手当率に影響がある等の理由から、一日、二日の病気の場合にも年次休暇として届け出ることが通常行なわれ、また、そのように指導されていたこと、原告についても、前記四月七、八日の両日は療養休暇として処理されたものの、それ以後六月一八日までは今井教頭の助言に従って年次休暇届を提出し、出勤簿上もそのように処理されたが、同月二五日に至り原告に与えられている年次休暇年間一五日も残り少なくなったため、右教頭、木村校長らの教示に基づき以後は療養休暇として休暇をとるようになったものであることが認められ、これに反する証拠はない。

2  紀律保持の精神の欠如について

(1) 《証拠省略》を合わせれば、原告は休暇をとる場合には、当日の夜に、たまには前夜に、今井教頭あるいは青木学年主任らの自宅に電話で連絡したり、また、後日に休暇届を提出するなど、前記九月一三日以降の入院加療による休暇の分を除いては、事後ではあるが一応届を出していること、けれども三崎中学校における教職員の出勤時刻は午前八時と定められ、八時から八時三〇分ごろまでは前記の如く教職員による授業等の打合わせ時間、八時三〇分からは授業開始となっていたところ、原告は、当初は八時までに出勤していたが、原告の下宿する平塚市からは電車、バスを乗り継いで、前記のように二時間ないし二時間三〇分を要することから、次第に八時三〇分の寸前に出勤する状態が恒常化し、五月以降は、八時からの打合わせにはほとんど間に合わないことが多かったこと、さらに、右のような恒常的遅刻の場合はもちろん、一時間以上遅刻するような場合にも、原告は、二、三回は七時三〇分ごろ用務員室に遅刻する旨、時に何回かは出勤時刻後相当経ってから、教員室にこれから出勤する旨それぞれ電話連絡したことが窺えるが、しかし、すべての遅刻につきかような連絡をとっていたものではないこと、が認められる。原告本人(第一回)の供述中、右認定に牴触する部分は、前掲各証拠に照らして必ずしもそのまま措信できず、他にこの認定を覆すに足る証拠はない。

(2) 三崎中学校においては、出張等で自己の授業ができない場合は、事前に補欠時間担当表に必要事項を記入して教務主任に提出することになっていたこと、右担当表の提出は被告ら主張のような趣旨であることおよび原告が、右担当表を九月の新採用教員研修会出張の際に提出していることは、当事者間に争いがなく、そして、原告が五月一三日の出張に際しても、その前日に右担当表を提出していることは、《証拠省略》によってこれを認めることができる。しかしながら、補欠時間担当表を提出すべきその余の場合、とりわけ前記のような原告の欠勤、遅刻の場合において、《証拠省略》によると、担当表の提出が殆んどなかったため、山田教務主任は適切な措置がとれず、補欠授業の実施に困惑、混乱をもたらしたことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(3) 原告が当初、中郡二宮町川匂一七三番地を住所とする通勤届を出していることおよび原告は既に一月に同所から平塚市花水台二八番八号小林方に住所を移していることは、当事者間に争いがない。この点に関し、原告はその旨の住所変更届を提出したと主張し、原告本人(第一回)はこれに添う供述をしているけれども、同供述は、《証拠省略》に照らしてたやすく採用し難く、他に右主張事実を裏付けるに足る資料はない。

そうとすれば、原告は四月の当初から、事実に符合せざる通勤届を提出し、かつ、真実に合致しない通勤手当の認定を受けていたものといわざるをえず、そして、《証拠省略》に照せば、右認定にかかる通勤手当は、原告が本来受領すべき手当額を超えていたことが認められる。

3  教師として勤務していこうとする熱意の不足について

(1) 原告の提出した教員採用志願書には採用後の住所は未定であり、どこにでも転住できる旨の記載がなされていることは当事者間に争いがない。しかるに、原告が平塚市に居住し、三崎中学校までの通勤に二時間ないし二時間三〇分を要して、その出勤状況が前述のとおりであったこと、そこで、木村校長らが原告に対し、出勤状況を改善するため三浦市への転居を勧めたが、原告はこれに応ぜず、依然として右の状態が続いていたことも前述のとおりである。

(2) 右のような勤務状況であれば、三崎中学校において原告の担当する第一、二学年の一部および第三学年の全クラスの美術科目の授業(原告の授業担当が右のとおりであったことは、《証拠省略》によって認められる。)の遂行、さらには、同校の教職員として負担する業務を果たす上で、相当な支障が生じたであろうことは容易に推認できるところであるが、《証拠省略》によっても、原告の授業が欠勤、遅刻によりしばしば自習になるので、生徒らがかなりの不満を感じていたこと、また、前記のとおり補欠時間担当表の提出が必ずしも確保されていないため、原告が休んだ際の代替教員は授業の進度等が分らず、その都度学年主任の指示を仰ぐことも多く、また、自分の自由時間が食われることから、おのずから原告の勤務態度について苦情が出ていたこと、そして、七月ごろにはPTA関係の会合でも善処を望む声が出てきたことなどが認められ、この認定を動かすに足る証拠はない。

三  そこで、本件免職処分の適否について判断するに、前項(二)1ないし3に認定した諸事情を総合検考すれば、原告の六月間の勤務実績は不良というほかはなく、学校教員たる職務に引き続き任用しておくことは適当でないと評定されてもやむをえないものがあるというべきであり、したがって、被告委員会のした本件免職処分は、その裁量権の行使において、合理性をもつものとして許容される限度をこえた不当なものがあるとは認め難いといわなければならない。さすれば、この点につき、裁量権の逸脱があったとする原告の主張は採りえないところである。

なお、原告は、本件免職処分はその手続に重大な瑕疵があると主張するけれども、これを認めるに足る証拠はない。もっとも、九月二七日に、木村校長が前記のように急性胃腸炎を患って平塚共済病院に入院中の原告を訪れて辞表を提出するよう申し入れたことは当事者間に争いがなく、そして、《証拠省略》によれば、その際、原告は木村校長および山田一太郎指導主事に対し、胃カメラ検査の済むまで猶予を与えて欲しいとの趣旨を述べていることが認められ、原告は、右のような経緯に照らして、その後程なくなされた本件免職処分は慎重な手続を欠くと主張する。

しかしながら、他面、《証拠省略》に徴すれば、病院において、木村校長らは原告に対して、一旦任意退職して加療の上、健康の回復をまって再採用の申し出をするよう助言していることが認められるのであり、これに、《証拠省略》によって認められる木村校長が九月二五日の三浦市教育委員会の指示に従い、原告の勤務に関する報告書を作成し、同月二七日ごろ同委員会に提出している事実を合わせれば、木村校長の前記申し入れは、原告に対する本件免職処分の不可避なることを察知した同校長らが、原告の将来を慮ってなした好意的な計らいというべきであって、何ら非難するに当たらないところである。加えて、条件附採用制度の趣旨に鑑みれば、公務上の原因に基づく傷病のような特段の事情のある場合は別として、しからざる限り右採用期間中の病気等による欠勤、遅刻は、それ自体、勤務評定の上で負の要因とみなされることは当然といわざるをえず、したがって、健康診断の結果をまたなければ、原告に対して免職処分を発することができないという理は成り立たないというべきである。してみれば、原告の叙上の主張も採用の限りでない。

四  以上の次第で、被告委員会がなした本件免職処分には何ら違法な点はないから、その余の判断をするまでもなく、原告の各請求はすべてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中田四郎 裁判官 本田恭一 杉本正樹)

〈以下省略〉

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